楓・J・ヌーベルの愛が肯定されてめちゃくちゃ嬉しい
楓・J・ヌーベルは美しい。
アサルトリリィ10話でついに楓・J・ヌーベルさんが積み上げてきたものが実を結びました。さて、楓・J・ヌーベルさんが積み上げてきたものとは果たして何だったのでしょうか、そしてそれはどのように実を結んだのでしょうか。それについて書いたのちに、本題である「楓・J・ヌーベルの愛が肯定されてめちゃくちゃ嬉しい」について述べようと思います。
一話から一貫して描かれる「見返りを求めない愛」への憧れ
まずスタート地点から確認していきましょう。楓・J・ヌーベルさんは家柄も最高かつリリィとしての実力も高く聡明、美貌に溢れた人物であり、一見欠点のない人物です。ですがそれがゆえに純粋さが欠如しており、本人はそれに対して非常に強い憧れを抱いています。だからこそ一話で自分の利害を度外視して自分を助けた梨璃に、そして梨璃が持つ「見返りを求めない愛」に対して非常に強い憧れを抱くことになりました。
「見返りを求めない愛」への憧れの強さは二話で確認することができます。ビンタのシーンですね。楓・J・ヌーベルさんは物語の一番最初の時点では夢結様とシュッツエンゲルを結ぶことを希望していました。これは楓・J・ヌーベルさんがシュッツエンゲルを「単純な目先の利益を求めるものでない(二話セリフ)」と認識していることがベースにあります。そしてそれに対する思いは、否定されると手が出てしまうほどに強いものです。
楓・J・ヌーベルさんが憧れる「見返りを求めない愛」がすぐさま実現できるものかといえばそうではありませんでした。実際二話では計算込みで梨璃にCHARMを教えようとしたり、梨璃がシュッツエンゲルを結べたことに対するご褒美をもらおうとしたりしています。8話では鶴紗から「ないものねだり」と言われていたりします。
一話からずっと積み上げてきて、かつほとんど何の見返りも得られなかった楓・J・ヌーベルさんの愛は9話にてようやく形を持ち始めます。
9話のお父様との電話のシーンにおいて楓・J・ヌーベルさんから「あの子(一柳結梨)、わたくしたちと何も変わりませんもの」という言葉が出ます。これは9話冒頭で梨璃が言うセリフと全く同一のものです。梨璃に対する憧れに対して楓・J・ヌーベルさんが追いつこうとしていることの何よりの証左ですね。そしてそのシーンの後にある「梨璃さんをお助けする栄光を〜」というセリフが芝居がかっていて本心ではないことが描かれるのも「見返りを求めない愛」へ到達しようとしていることを示しています。
ただ、9話ではこれは「一柳結梨の死」という形で否定されてしまいます。9話で否定されているのは「何かになろうとする時に他の人と全く同じ手法をとろうとすること」であるので、梨璃と全く同じ方法をとろうとした楓・J・ヌーベルさんもそこで否定されています。
しかしそこで折れてやる楓・J・ヌーベルさんではありません。話数を跨いだらもう美しく立っています。10話の頭では夢結様の内心に踏み込み手助けをすることができています。これはここまで梨璃にしかできていなかったことです。そしてそのやりとりで発せられる言葉は楓・J・ヌーベルとしての言葉でしかありません。楓・J・ヌーベルはこの地点において、ついに、ようやく、梨璃に、自分のやり方で追いつくことができているのです。
四葉のクローバーは楓と梨璃の関係性においてどのような意味を持つか
まず楓・J・ヌーベルさんが梨璃をどのように愛しているかを確認していきましょう。
楓・J・ヌーベルさんが梨璃を愛している理由はこれまで述べてきた通り「純粋だから」です。これは楓・J・ヌーベルさんが何度も言ってきたことでもあります。「純真無垢さが梨璃さんのとりえ(8話)」「またわからんちんなことを...まぁそこが魅力なんですが(4話)」などがその代表ですね。
9話で起きた出来事は梨璃から「純粋さ」を奪ってしまうかもしれない事件でした。ボロボロになってしまった四葉のクローバーはその危機を象徴しています。そもそも四葉のクローバー自体が梨璃らしさの象徴として機能していて、それが外れてボロボロになったことで梨璃らしさが失われようとしているということです。
アクセサリーがその人を象徴するものとして機能するという話の裏付けをとるために少し脱線します。4話の雨嘉が一柳隊に入りたいと思った理由は「アクセサリーの猫を褒められたから」でした。これはこれだけだと全く意味がわかりません。ただ、小説版において雨嘉はこの猫を自分の個性、自分らしさの一部として捉えていることが明確に述べられています。それは小説版の話だからアニメには関係ないだろ、という話は当然あります。ここで8話に話を移しましょう。8話において雨嘉は猫となり「自分らしさがコンセプトのコスプレコンテスト」に参加します。つまり雨嘉の猫のアクセサリーは彼女らしさとして機能しているということです(雨嘉がそれを自認してはいませんが)。脱線終了。
梨璃らしさが消失してしまうかもしれない危機において楓・J・ヌーベルさんは全く同一のアクセサリーを作ることで乗り切ろうと試みました。これは楓・J・ヌーベルさんから梨璃に対する「あなたらしくあってくれ」という願いです。それを受け取ることで梨璃はようやく自分らしさを取り戻すことができるのです。
ただこれは結果的にそうなるというだけの話で、楓・J・ヌーベルさんにはその意図はないし、梨璃もアクセサリーに対してそのような意味は感じていないと思います。雨嘉が猫を自分らしさとして自認しているわけではないということも、作中人物にそのことが認識されるわけではないということの答えわせになります。しかし雨嘉の猫は同時に無意識下では象徴としての機能を認識していることも示しています。だからこそやりとりとして成立しているのです。
まぁ、楓・J・ヌーベルさんが作ったそれは梨璃が実際に持っていたそれよりも綺麗で、楓・J・ヌーベルさんの考える梨璃が実際のそれよりも輝いていることも示しているんですけどね。
なぜ楓・J・ヌーベルの愛が肯定されることが嬉しいのか?
前置きが長くなりすぎました。本題に入ります。
四葉のアクセサリーが象徴として機能していることはこれまでに述べた通りですが、では夢結様がこれに大した意味を感じていなかったのはなぜでしょう?それは、梨璃が梨璃らしさを失ったからといって夢結様の愛が全く損なわれるわけではないからです。夢結様の愛はもらったものを返そうとする愛であり、梨璃が変わってしまったことでこれまでに積み上げてきたものが崩れるわけではないので、愛に変化は起きないからです。
夢結様の愛と楓・J・ヌーベルさんの愛との対照によって、楓・J・ヌーベルさんの愛がある種のエゴイズムを含んでいるものであることが明らかになっています。この対照は10話に至っても全く崩れません。楓・J・ヌーベルさんによる四葉のクローバーのプレゼントは、それが偽物とバレた時点で押しつけととられ拒まれても仕方ないものでした。実際楓・J・ヌーベルさんもこれには美しい立ち姿を保てず、座りこんでしまっていました。
結果として楓・J・ヌーベルさんの愛は肯定されました。当然それまでの過程が存在するからでもありますが、この肯定が周囲も納得する様な形で行われたということが本当に素晴らしいです。
エゴというのは基本的に否定されるような筋で描かれることが多いものなんですよ。実際、エゴといっていいイメージを抱く読者の方は少ないと思います。それを、アサルトリリィは肯定したんです。これは本当にすごい。凄すぎる。本当に嬉しい。最高のアニメです、アサルトリリィは。